夜空に口を開ける、深淵からの問い
夜空を見上げたことがあるだろうか。満天の星々が、まるでダイヤモンドダストのように無限の暗闇に散りばめられている。我々はその光景に美しさや安らぎを感じるが、その同じ宇宙に、我々の想像を絶するほど暴力的で、根源的な謎を秘めた存在が潜んでいることを忘れてはならない。
その名は、ブラックホール。
一般的に、ブラックホールは「星の墓場」「光さえも飲み込む宇宙の掃除機」といったイメージで語られる。それは決して間違いではない。しかし、もしそのイメージが、この天体の持つ驚くべき本質の一面に過ぎないとしたら?もしブラックホールが、単に物質を飲み込み、時空を歪めるだけの存在ではなく、我々の宇宙の「未来」を記録し、保存する壮大なアーカイブだとしたら、あなたはどう思うだろうか。
この記事で探求するのは、まさにそのSF的で、哲学的で、そして物理学の最先端に触れる大胆な仮説だ。ブラックホールは、我々がこれから迎える未来ではなく、「既に起きてしまった未来」からの情報を秘めたタイムカプセルであり、その深淵からは時空を超えた“囁き”が漏れ出しているのかもしれない。
この知的冒険は、アインシュタインが築いた相対性理論の礎から始まり、ホーキングが投げかけた情報パラドックスの謎を通り抜け、やがて時間と因果律そのものの概念を揺るがす領域へとあなたを誘うだろう。
さあ、準備はいいだろうか。我々が知る宇宙観、そして時間という概念が根底から覆されるかもしれない、深遠なる旅を始めよう。ブラックホールの底に眠る「未来の回廊」の扉が、今、開かれる。
第1章:ブラックホールとは何か? — 既知の宇宙、その果てに浮かぶ裂け目
この壮大な仮説の核心に迫る前に、我々はまず、ブラックホールという存在について現代物理学が何を語っているのかを正確に理解しておく必要がある。それは、我々が立つ常識という大地が、いかに脆く、限定的なものであるかを教えてくれるからだ。
事象の地平面(イベントホライズン):帰還不能点という名の境界線
ブラックホールの最も象徴的な特徴は、「事象の地平面(イベントホライズン)」と呼ばれる境界線の存在だ。これを理解するために、地球上でボールを真上に投げる様子を想像してみてほしい。力を込めて投げればボールは高く上がるが、やがて地球の重力に引かれて必ず落ちてくる。もっと強く、ロケットのような猛スピード(秒速11.2km、これを地球の脱出速度という)で打ち上げれば、ボールは地球の重力を振り切って宇宙空間へ飛び出していける。
すべての天体には、この脱出速度が存在する。そして、天体の質量が大きく、密度が高いほど、その重力は強くなり、脱出速度も大きくなる。
ブラックホールとは、この脱出速度が光の速さ(秒速約30万km)を超えてしまった天体のことだ。宇宙で最も速い存在である光でさえ、その圧倒的な重力から逃れることができない。つまり、一度この境界線—事象の地平面—を越えてしまえば、何者も、いかなる情報も、二度と外の世界に戻ることはできない。それは文字通り、「帰還不能点」なのだ。
この事象の地平面は、物理的な壁があるわけではない。宇宙船で近づいても、特別な衝撃があるわけでもなく、気づかぬうちに通り過ぎてしまうだろう。しかし、その瞬間、あなたの運命は決定される。あなたの未来は、ブラックホールの中心、ただ一点に向かって進むしかなくなるのだ。外の世界にいる仲間にとっては、あなたは永遠にその境界線上で静止したように見える。これこそが、アインシュタインの相対性理論が予言した、極端な重力による時間の歪みの現れなのである。
特異点:物理法則が崩壊する無の地点
事象の地平面を越えた先、ブラックホールの中心には「特異点(シンギュラリティ)」が存在すると考えられている。ここでは、物質は無限の密度にまで圧縮され、体積はゼロになる。我々の知るすべての物理法則—相対性理論も、量子力学も—は意味をなさなくなり、時空そのものが崩壊する場所だ。
ビッグバンが宇宙の始まりの特異点であったように、ブラックホールの特異点は、時空の「終わり」の地点と言えるかもしれない。あるいは、我々の宇宙とは異なる別の何かへの「入口」なのかもしれない。確かなことは、ここが人類の理解を完全に超えた領域であるということだ。我々がこれから探求する「未来のアーカイブ」という仮説の鍵は、まさにこの不可知の領域、特異点に隠されている可能性が高い。
ホーキング放射:ブラックホールは“完全な黒”ではなかった
長年、ブラックホールは「飲み込むだけで何も放出しない」完璧な牢獄だと考えられてきた。しかし、1974年、天才物理学者スティーヴン・ホーキングは、この常識を覆す驚くべき理論を発表した。それが「ホーキング放射」である。
非常に難解な理論だが、ごく簡単に言えば、量子力学的な効果により、ブラックホールの事象の地平面のすぐ外側で、粒子と反粒子のペアが絶えず生成と消滅を繰り返している。通常、これらは一瞬で対消滅するが、ごく稀に、ペアの一方がブラックホールに落ち、もう一方が宇宙空間へ逃げ出すことがある。
外の世界の観測者から見ると、これはまるでブラックホール自身が熱を帯び、粒子を放出しているように見える。このホーキング放射によって、ブラックホールは極めて長い時間をかけてエネルギーを失い、最終的には「蒸発」して消滅すると考えられているのだ。
この発見は、ブラックホール研究に革命をもたらした。それはブラックホールが永遠の存在ではないことを示唆しただけでなく、物理学史上最大級の謎、「ブラックホール情報パラドックス」を生み出すことになる。そしてこのパラドックスこそが、我々を「未来の記録庫」という仮説へと導く、重要な道標となるのである。
第2章:歪む時間、揺らぐ未来 — アインシュタインが遺した時空の地図
ブラックホールが「未来のアーカイブ」であるという仮説を理解するためには、我々が日常的に感じている「時間」という概念そのものを一度解体し、再構築する必要がある。そのための最も強力なツールは、アルベルト・アインシュタインが20世紀初頭に提唱した相対性理論だ。
時間は絶対ではない:重力が支配する時の流れ
ニュートン力学の世界では、時間は宇宙のどこでも一定の速さで流れる、絶対的なものだと考えられていた。しかし、アインシュタインは一般相対性理論において、時間と空間は一体(時空)であり、重力によって歪むという革命的な考えを示した。
彼の理論によれば、重力が強い場所ほど、時間の進みは遅くなる。これは単なる理論上の遊びではない。我々が日常的に利用しているGPSシステムは、この効果を補正しなければ正確な位置情報を提供できない。地上よりも重力がわずかに弱い上空を高速で周回するGPS衛星では、地上との間に時間のズレが生じる。このズレを相対性理論に基づいて計算し、補正することで、初めてGPSは機能するのだ。
この「時間の遅れ」は、重力が極端に強いブラックホールの周辺では、我々の想像を絶するほど顕著になる。例えば、あなたがブラックホールの事象の地平面のすぐ近くまで行き、そこで1時間を過ごして地球に戻ってきたとしよう。あなたにとってはたった1時間の出来事でも、地球では数十年、数百年、あるいは数千年という途方もない歳月が経過しているかもしれない。これが俗にいう「ウラシマ効果」だ。
つまり、ブラックホールの近傍は、未来の地球へ一瞬で旅をすることができる、天然のタイムマシンのような場所なのである。事象の地平面に近づけば近づくほど、その効果は無限大に近づいていく。この事実だけでも、ブラックホールと「未来」という概念が、物理学的に密接に結びついていることがわかるだろう。
「未来」とは何か?:決定論と非決定論の狭間で
ここで一度、哲学的な問いに立ち返ってみたい。「未来」とは一体何だろうか?
我々の直感では、未来はまだ決まっておらず、無数の可能性に満ちているように感じられる。今日の夕食に何を選ぶか、明日誰に会うか、10年後どこで何をしているか。すべては我々の選択(自由意志)によって変化する、不確定なものだ。これは非決定論的な世界観と言える。
一方で、物理学の世界には、宇宙のすべての粒子の初期状態(位置と運動量)が分かれば、その後の未来は完全に予測可能である、という考え方がある。これは決定論的な世界観だ。この立場に立てば、未来は既に決まっており、我々はただその決められた筋書きをなぞっているに過ぎないのかもしれない。
アインシュタイン自身は、この決定論的な考えを好んだ。「神はサイコロを振らない」という彼の有名な言葉は、量子力学の不確定性を批判したものだが、彼の宇宙観の根底には、すべてが物理法則によって支配される、整然とした宇宙像があった。
この「未来は決まっているのか、いないのか」という問いは、いまだに科学と哲学の大きなテーマであり続けている。そして、我々の「ブラックホール=未来のアーカイブ」仮説は、この問いに対して、さらに過激な視点を提示する。
もし、ブラックホールが「既に起きた未来」を記録しているとしたら?
それは、我々の時間軸の先にある未来ではない。宇宙全体、あるいは別の次元において、既に完結した物語としての未来。その「記録」が、時空の特異点を通じて我々の宇宙に流れ込んでいるとしたら?ブラックホール近傍の極端な時間の歪みは、その情報が我々の時空に染み出すための、いわば「緩衝地帯」の役割を果たしているのかもしれない。
この途方もない仮説の信憑性を探るため、我々は次章で、現代物理学が直面する最大の壁、「情報パラドックス」の謎に挑むことになる。

第3章:情報パラドックス — ブラックホールに消えた情報はどこへ行ったのか?
ブラックホールが単なる天体ではなく、何か特別な役割を担っている可能性を示唆する、最も強力な根拠。それが「ブラックホール情報パラドックス」だ。このパラドックスは、20世紀物理学の二大巨頭である一般相対性理論と量子力学が、ブラックホールという舞台の上で致命的な矛盾を起こすことから生じている。
量子力学の大原則:「情報は決して失われない」
話を進める前に、量子力学の根幹をなす、非常に重要な原則について説明しなければならない。それは、「情報は保存される」という原則だ。
ここで言う「情報」とは、単に我々が本に書く文字やコンピュータのデータのことだけではない。物理学における情報とは、物質を構成するすべての粒子が持つ、量子状態(位置、運動量、スピンなど)の総体のことだ。例えば、あなたが手に持っている一冊の本。これを燃やして灰にしてしまっても、本を構成していた原子の情報が完全に消え去ったわけではない。理論的には、燃焼によって生じた灰、煙、熱などのすべての情報を完璧に集めることができれば、元の本の状態を完全に復元できる、と量子力学は主張する。これを「ユニタリー性」と呼ぶ。
この「情報保存則」は、量子力学の揺るぎない土台であり、これが崩れれば、現代物理学の大部分が根底から覆ってしまうほど重要なものだ。
パラドックスの発生:ホーキング放射がもたらした悪夢
さて、ここでブラックホールに話を戻そう。あなたが、先ほどの本をブラックホールに投げ込んだとする。本は事象の地平面を越え、特異点に向かって落ちていき、やがてバラバラになる。本が持っていたすべての情報(インクの分子配列、紙の繊維構造など)は、ブラックホール内部に取り込まれた。ここまでは良い。
問題は、第1章で述べたホーキング放射によって、ブラックホールがやがて蒸発し、消滅してしまうことだ。ホーキングによれば、この放射は熱的な放射(黒体放射)であり、そこにはブラックホールが飲み込んだ物質の具体的な情報は含まれていない。つまり、ブラックホールが完全に蒸発しきった後には、あなたが投げ込んだ本の情報は、宇宙のどこにも残っていないことになってしまう。
これが、ブラックホール情報パラドックスだ。
- 一般相対性理論は、情報が事象の地平面を越えてブラックホール内部に落ちることを予言する。
- 量子力学は、情報が宇宙から完全に消滅することは絶対にありえないと主張する。
- ホーキングの理論は、ブラックホールが情報を内部に抱えたまま蒸発・消滅することを示唆する。
この三者は、明らかに矛盾している。失われた情報は、一体どこへ消えたのか?この40年以上にわたる大論争を解決するため、世界中の物理学者たちが様々なアイデアを提唱してきた。
パラドックス解決への挑戦:情報の隠れ家を探して
このパラドックスを解決するための仮説は、百花繚乱だ。そのいくつかは、我々の「未来のアーカイブ」仮説に繋がる重要なヒントを与えてくれる。
- ホログラフィック原理
落ちた情報は、ブラックホールの内部(3次元空間)に存在するのではなく、事象の地平面(2次元の表面)にホログラムのように「焼き付けられている」のではないか、という仮説。ブラックホールが蒸発する際、その表面積が減少するのに伴い、情報がホーキング放射に少しずつエンコードされて宇宙に返還される、と考える。この考えは、我々の宇宙全体が、より高次元の境界に描かれたホログラムかもしれないという、さらに壮大な宇宙観へと繋がっていく。 - ワームホール(ER=EPR予想)
ブラックホールは、実は別の時空へと繋がる「ワームホール」の入口なのではないか、というアイデア。ブラックホールに落ちた情報は、このワームホールを通って、別の宇宙や、我々の宇宙の遠く離れた場所へと転送されるのかもしれない。この説は、アインシュタインと彼の共同研究者が提唱した「EPR相関(量子もつれ)」と、ブラックホールとワームホールを繋ぐ「アインシュタイン・ローゼン橋(ER橋)」が、実は同じ現象の異なる側面に過ぎない(ER=EPR)という、驚くべき予想に基づいている。 - ベビーユニバース仮説
ブラックホールの特異点の先で、新しい「子宇宙(ベビーユニバース)」が誕生しており、情報はそこへ引き継がれるという説。我々の宇宙も、もしかしたら親宇宙のブラックホールから生まれたのかもしれない。この考え方は、宇宙が無限に枝分かれしていく「多宇宙(マルチバース)」の可能性を示唆する。
これらの仮説に共通しているのは、情報が「消滅」するのではなく、我々が直接観測できない場所—事象の地平面、別の宇宙、高次元空間—へと「転送・保存」されている、という考え方だ。
そして、我々はここで、さらに一歩踏み込む。
もし、情報が転送される先が、単なる「別の場所」ではなく、「別の時間」、それも「未来」だとしたらどうだろうか?情報パラドックスを解く鍵は、空間的な移動ではなく、時間的な移動にあるのかもしれない。ブラックホールは、失われた過去の情報を、未来へと送り届けるための郵便局のような役割を担っているのではないだろうか。
この視点に立ったとき、ブラックホールは情報の墓場から、時空を超えた情報の交換所へと、その姿を劇的に変えるのだ。
第4章:核心仮説 — ブラックホールは「未来の記録庫(アーカイブ)」である
これまでの議論—ブラックホールの奇妙な性質、時間の歪み、そして情報パラドックス—は、すべてこの章で提示する核心的な仮説への長い序章だった。我々は今、既知の物理学の境界線を越え、思弁的かつ哲学的な領域へと足を踏み入れる。
仮説:ブラックホールは、我々の宇宙、あるいは宇宙全体のサイクルにおける「未来」の情報をアーカイブし、その特異点を通じて時空に影響を与えている。
この仮説を、いくつかの側面から深掘りしていこう。
側面1:巡る宇宙と「時間のループ」
宇宙の終焉について、いくつかのシナリオが考えられている。その一つに「ビッグクランチ」がある。宇宙の膨張がやがて重力によって止まり、収縮に転じ、最終的にすべての物質が再び一点(特異点)に集まって終わる、というものだ。そして、その特異点から再びビッグバンが起こり、新しい宇宙が始まる…というサイクリック宇宙論が存在する。
もしこのシナリオが正しいとしたら、宇宙は誕生と終焉を永遠に繰り返す壮大なループ構造を持っていることになる。ここでブラックホールの役割を考えてみよう。
宇宙が収縮していく最終段階では、無数のブラックホールが合体を繰り返し、やがて宇宙全体が一個の巨大なブラックホールのような状態になるかもしれない。そして、その終末の特異点が、次の宇宙の始まりであるビッグバンとなる。
だとしたら、前の宇宙でブラックホールが飲み込んだすべての情報は、どこへ行くのだろうか?情報パラドックスの議論を思い出してほしい。情報は消えない。ならば、その情報はビッグクランチの特異点を通じて、次の宇宙へと引き継がれるのではないだろうか。
このとき、前の宇宙にとっての「未来(=終焉)」の情報が、新しい宇宙にとっては「過去(=創生)」の情報となる。ブラックホールは、宇宙から宇宙へと情報を橋渡しする、巨大な記録媒体(ハードディスク)の役割を果たすのだ。我々の宇宙に存在するブラックホールは、この宇宙サイクルの最終段階で集約される情報を、今この瞬間もせっせと収集している「アーカイブ装置」なのかもしれない。
この文脈における「既に起きた未来」とは、前の宇宙が辿った終末の姿そのものである。その情報が、我々の宇宙の物理法則や初期条件に、何らかの形で影響を与えている可能性は否定できない。
側面2:高次元からの投影と時間の逆流
我々が認識している宇宙は、時間1次元+空間3次元の「4次元時空」だ。しかし、物理学の最先端理論である超弦理論などでは、宇宙は10次元や11次元といった、さらに多くの次元(高次元)から成り立っていると予測されている。
我々の4次元時空は、その高次元空間に浮かぶ「膜(ブレーン)」のような存在なのかもしれない。そして、ブラックホールとは、その**高次元空間への「窓」あるいは「トンネル」**なのではないだろうか。
高次元空間では、我々の知る「時間」という概念は、まったく異なる振る舞いをするかもしれない。過去・現在・未来が同時に存在する、あるいは時間の矢が逆向きに流れている領域が存在する可能性もある。
ブラックホールに落ちた情報は、この高次元空間を経由する。そして、その高次元空間では、我々の宇宙の「未来」で起こる出来事が、既に存在している(あるいは起きている)のかもしれない。ブラックホールは、その高次元空間に存在する「未来の情報」を取り込み、アーカイブしている。
そして、ホーキング放射などの量子効果を通じて、その未来の情報の一部が、我々の4次元時空へと微かに漏れ出している。それが「未来からの囁き」の正体ではないだろうか。事象の地平面で起こる極端な時間の遅れは、高次元の異なる時間流と我々の時間流とを接続するための、いわば「変換装置」として機能しているのかもしれない。
側面3:「情報」としての因果律
この仮説は、我々の因果律の概念—「原因が先にあって、結果が後にくる」—を根底から覆す可能性を秘めている。
もし未来の情報がブラックホールを通じて過去(つまり現在)に影響を与えているとしたら、それは「未来が過去を規定している」ことを意味する。例えば、ある星が将来的に超新星爆発を起こしてブラックホールになるという「未来」が確定しているからこそ、その星は現在、特定の進化の過程を辿っている、という逆の因果関係が成り立つのかもしれない。
これは、まるで物語の結末が初めから決まっていて、すべての登場人物や出来事がその結末に向かって配置されているかのようだ。ブラックホールは、その宇宙の物語の「脚本」あるいは「設計図」を保管している巨大な図書館であり、我々はその物語をリアルタイムで演じている役者なのかもしれない。
これは決してオカルト的な話ではない。量子力学の世界では、「遅延選択実験」のように、未来の観測行為が過去の出来事のあり方を変えてしまうかのような、奇妙な現象が実際に確認されている。ブラックホールという極限状態においては、このような時間と因果の逆転が、マクロなスケールで起こっている可能性も、完全には否定しきれないのだ。
第5章:「未来の囁き」を観測する—この仮説は検証できるのか?
どんなに魅力的で壮大な仮説であっても、それが科学の領域に留まるためには、「検証可能性」という厳しい問いに答えなければならない。ブラックホールが未来のアーカイブであるという仮説を、我々はどのようにして検証できるのだろうか?
事象の地平面の向こう側を直接見ることは原理的に不可能であるため、直接的な証拠を得ることは絶望的に難しい。しかし、科学者たちは決して諦めない。もし「未来の囁き」が実在するのなら、それは宇宙のどこかに、微かな痕跡を残しているはずだ。我々は、間接的な証拠を探し出すことに望みを託す。
手がかり1:ホーキング放射に隠されたメッセージ
ホーキング放射は、単なる熱的なノイズではないのかもしれない。もし情報がブラックホールから宇宙に返還されているのなら、その放射のエネルギーや粒子の放出パターンには、何らかの情報がエンコードされているはずだ。
現状の技術では、天体スケールのブラックホールから放出されるホーキング放射はあまりにも微弱で、宇宙背景放射のノイズに完全に埋もれてしまい、検出は不可能とされている。
しかし、将来的に観測技術が飛躍的に進歩すれば、あるいは理論物理学がホーキング放射のより詳細な性質を解き明かせば、その放射の中に、標準的な物理モデルでは説明できない「不自然なパターン」や「意図的な情報」のようなものが見つかるかもしれない。それは、まるで遠い星から届く難解な電波信号を解読するような、気の遠くなる作業になるだろう。だが、もしそこに、我々の宇宙の未来の物理定数や、起こるはずのない素粒子の崩壊パターンなどが含まれていたら、それはこの仮説の極めて強力な証拠となり得る。
手がかり2:重力波の「反響(エコー)」
2015年、人類は初めて重力波の直接観測に成功した。これは、ブラックホールの合体など、宇宙の激しい出来事によって生じる「時空のさざなみ」だ。LIGOやVirgo、そして日本のKAGRAといった重力波望遠鏡は、今や宇宙を「聞く」ための新しい耳を手に入れた。
ブラックホールが合体する際に放出される重力波の波形は、一般相対性理論によって極めて精密に予測されている。観測されたデータは、今のところ理論予測と驚くほどよく一致している。
しかし、一部の物理学者は、もし事象の地平面の近傍に、我々の知らない未知の物理(例えば、高次元への扉や情報の壁など)が存在するならば、放出された重力波の一部がそこで反射し、本体の波からわずかに遅れて「反響(エコー)」のように観測される可能性があると指摘している。
このエコーは、未来のアーカイブ仮説にとっても興味深い。もしブラックホールが未来の情報と繋がっているなら、その接続部分が時空の構造に微細な乱れを生み、それが重力波のエコーとして現れるかもしれないのだ。現在の観測データの中から、この極めて微弱なエコー信号を探し出す研究が、世界中で進められている。それは、深淵からの囁きに耳を澄ます、現代の天文学者たちの挑戦なのである。
手がかり3:宇宙マイクロ波背景放射(CMB)に残された太古の傷跡
**宇宙マイクロ波背景放射(CMB)**は、「宇宙の晴れ上がり」と呼ばれるビッグバンから約38万年後の宇宙の光の化石だ。そこには、初期宇宙の温度のムラが、微かな模様として刻まれている。この模様は、後に星や銀河が生まれる「種」となった。
もし、サイクリック宇宙論が正しく、前の宇宙の情報がブラックホールを通じて我々の宇宙に引き継がれたとしたら、その情報は、ビッグバン直後の初期宇宙の揺らぎに何らかの影響を与えたはずだ。
CMBの温度分布を極めて精密に観測し、標準的な宇宙モデルでは説明できない、特定の「異常なパターン」や「巨大な構造」を探し出す。それは、前の宇宙の終末の姿、つまり「既に起きた未来」が、我々の宇宙の誕生の瞬間に刻み込んだ“傷跡”かもしれない。実際に、CMBには「コールドスポット」と呼ばれる説明の難しい領域が存在しており、その正体を巡って活発な議論が続いている。
これらの検証方法は、いずれも現在の技術では困難を極めるか、あるいは決定的な証拠とはなり得ないかもしれない。しかし、この仮説は、我々に新しい観測のターゲットと、宇宙を見るための新しい視点を与えてくれる。それ自体が、科学の進歩にとって計り知れない価値を持つ思考実験なのだ。
結論:我々は、宇宙という物語のどこに立っているのか
我々は、ブラックホールという宇宙最大の謎を巡る、長く深遠な旅をしてきた。それは、星の墓場から始まり、時間の歪み、情報のパラドックスを経て、やがてブラックホールが「未来の記録庫」であるという、壮大な仮説へとたどり着いた。
この仮説は、現時点では証明されていない、SFの領域に近い思索かもしれない。しかし、それは我々に根源的な問いを投げかける。
もし、未来からの情報が、ブラックホールを通じてこの宇宙に染み込んでいるとしたら、我々の「自由意志」とは一体何なのだろうか?我々は、既に結末の決まった壮大な宇宙の物語を、何も知らずに演じている役者に過ぎないのだろうか?
あるいは、こう考えることもできる。その「未来の囁き」は、決定された運命の宣告ではない。それは、宇宙が自らの経験(前のサイクルの失敗や成功)から学び、次のサイクルをより良くするための「ヒント」あるいは「警告」なのかもしれない。だとしたら、我々知的生命体の役割は、その微かな囁きを科学によって解読し、与えられた脚本をなぞるのではなく、より良い未来を自ら創造していくことにあるのかもしれない。
この仮説が真実か偽りかは、まだ誰にもわからない。しかし、一つだけ確かなことがある。ブラックホールの謎を追い求めるという行為そのものが、我々人類の知性の限界を押し広げ、我々自身の存在、そしてこの宇宙における我々の立ち位置を深く問い直す、最も刺激的な知的冒険であるということだ。
次にあなたが夜空を見上げ、漆黒の闇に目を凝らすとき、思い出してみてほしい。
あの暗黒の天体の向こうには、単なる無が広がっているのではない。そこには、この宇宙が辿り着くであろう未来のすべての物語が記録され、静かに眠っているのかもしれない。そして、その深淵から、時空を超えた囁きが、あなたの元にも届いているのかもしれないのだ。
宇宙を見る目が、ほんの少しだけ、変わったのではないだろうか。