2023年、宮崎駿監督の最新作にして、おそらく最後の長編アニメーションとなる「君たちはどう生きるか」が公開され、国内外で大きな話題を呼びました。事前情報がほとんどない中での公開は、観客一人ひとりの解釈を豊かにし、様々な議論を生んでいます。本作は、戦争の影が色濃い時代を背景に、母を失った少年・眞人(まひと)が不思議な青サギに導かれ、生と死が混じり合う異世界へと迷い込む物語です。
この物語、一見するとファンタジーの王道を行くように見えますが、その奥には我々の日常的な認識を超えた、まるで「高次元世界」を思わせるような深遠なテーマが横たわっているのではないでしょうか? 本作に散りばめられた不可解なシーンの連続、時間と空間の歪み、そして「生きる」という根源的な問いかけ。これらは、高次元的な視点から見ることで、驚くほどクリアに、そしてより深く理解できるかもしれません。
宮崎駿監督の作品群には、常に「異世界」の存在が描かれてきました。「風の谷のナウシカ」の腐海、「天空の城ラピュタ」のラピュタ、「となりのトトロ」の森、「千と千尋の神隠し」の湯屋など、現実と地続きでありながら、異なる法則に支配された世界。しかし、「君たちはどう生きるか」で描かれる異世界は、これまでの作品とは一線を画す、より複雑で、より根源的な「世界の構造」そのものに触れているように感じられるのです。
この記事では、「君たちはどう生きるか」が示唆する「高次元世界」の可能性について、物理学的な側面、精神的な高次元、そしてメタファーとしての高次元という3つの視点から深く掘り下げていきます。宮崎駿監督がこの物語に仕掛けた壮大な謎と、その先に浮かび上がる「君たちはどう生きるか」という問いの真髄に迫りたいと思います。
1. 「高次元世界」とは何か? – 本考察の前提となる視点
本題に入る前に、「高次元世界」という言葉が何を指すのか、本考察における前提を整理しておきましょう。この言葉は多義的であり、文脈によって異なる意味合いを持ちます。
まず、物理学的な高次元について。私たち人間は、3つの空間次元(縦・横・高さ)と1つの時間次元、合わせて4次元時空に生きているとされています。しかし、現代物理学、特に超弦理論などでは、宇宙はさらに多くの隠れた次元(余剰次元)を持っている可能性が示唆されています。これらの高次元は、私たちの日常生活では知覚できないほど小さく折りたたまれているか、あるいは私たちが認識できない形で存在していると考えられています。もし高次元空間が存在するならば、そこでは私たちの知る物理法則が異なる形で作用したり、異なる宇宙(パラレルワールド)が近接して存在したりする可能性も考えられます。
次に、精神的な高次元という観点です。これは、意識のより高い段階、霊的な世界、死後の世界、あるいは集合的無意識といった概念を指します。古来より多くの文化や宗教で語られてきた、目に見えない世界や魂の存在は、この精神的な高次元の領域に属すると言えるでしょう。夢や瞑想、あるいは臨死体験などで垣間見えるとされる世界も、この範疇に入るかもしれません。
そして最後に、メタファーとしての高次元です。これは、文字通りの物理的・精神的な高次元を指すのではなく、我々の日常的な認識や理解を超えた、より複雑で本質的な世界のありようや、物事の深層構造を指す比喩表現です。例えば、ある問題に対して「より高次元の視点から見る」と言う場合、それはより俯瞰的で、本質を捉えた見方をするという意味で使われます。
「君たちはどう生きるか」を読み解く上で、これらの高次元の概念は非常に有効なツールとなります。塔の内部構造や「下の世界」の描写は物理的な高次元の示唆を、ワラワラやヒミの存在は精神的な高次元の探求を、そして物語全体が問いかけるテーマはメタファーとしての高次元の世界観を、それぞれ想起させるからです。これらの視点を組み合わせることで、物語の多層的な構造が浮かび上がってきます。
2. 異次元への扉「塔」 – 物理法則を超越した謎多き建造物
物語の鍵となるのが、眞人の屋敷の近くにそびえ立つ謎の「塔」です。この塔こそ、眞人を高次元的な異世界へと誘う文字通りのゲートウェイであり、その存在自体が私たちの世界の物理法則を超越していることを示唆しています。
塔の起源と不可思議な性質
塔は、眞人の大叔父が建てたとされていますが、その描写は尋常ではありません。大叔父は「この塔は生きておる」「外から来た石だ」と語ります。これは、塔が地球由来の物質や建築様式で作られたものではなく、文字通り宇宙の彼方から飛来した、あるいは異次元から出現した物体であることを暗示しています。苔むし、古びた外観とは裏腹に、内部には不可解な力が宿っているのです。塔が「生きている」という表現は、単なる建造物ではなく、何らかの意識や独自の法則性を持った存在であることを示唆しているのかもしれません。これは、物理的な高次元空間が、私たちの3次元空間に突如として現れた「特異点」のようなものと解釈することもできるでしょう。
塔内部の空間歪曲 – 異なる時空への接続
眞人が青サギに導かれて塔の内部へと足を踏み入れると、そこは我々の知る空間とは全く異なる法則に支配されていることが明らかになります。扉を開けるたびに、全く異なる時代や場所へと繋がるのです。ある扉は戦時中の炎上する東京へ、ある扉は死を目前にした産屋へ、そしてまたある扉は大叔父の書斎へと続いています。
これは、高次元空間が低次元空間を内包したり、異なる時空のポイントが短絡的に接続されたりする「ワームホール」のような概念を彷彿とさせます。あるいは、塔自体が複数のパラレルワールドへのアクセスポイントとなっているのかもしれません。物理学的な高次元モデルでは、私たちの3次元宇宙は「ブレーン」と呼ばれる膜のようなものとして存在し、高次元空間(バルク)には他にも多数のブレーン宇宙が存在し得ると考えられています。塔は、これらの異なるブレーン宇宙を繋ぐトンネルのような役割を果たしているのではないでしょうか。
時間の流れの異質さ – 相対的な時間体験
塔の中や、そこから繋がる「下の世界」では、現実世界との時間の流れが明らかに異なっています。眞人が「下の世界」で数日間過ごしたとしても、現実世界ではそれほど時間が経過していないように描かれます。最も象徴的なのは、眞人が出会う少女ヒミが、実は若き日の母・久子であるという事実です。ヒミは「下の世界」で眞人と共に冒険しますが、その後、彼女は眞人の生まれる時代へと「帰還」し、眞人の母となります。これは、塔の内部や「下の世界」が、過去・現在・未来という直線的な時間軸からある程度自由な、あるいは異なる時間流を持つ領域であることを示しています。
大叔父が何世代にもわたって塔の主として存在し続けていることも、この時間の異質性を裏付けています。彼は、現実世界の時間の束縛から解き放たれた存在なのかもしれません。アインシュタインの相対性理論によれば、重力や速度によって時間の進み方は変化しますが、塔の内部では、それを超えるような、根本的に異なる時間法則が働いていると考えられます。
積み木と世界の創造・維持 – 高次元存在による世界の管理?
物語のクライマックス近くで、大叔父は眞人に「13個の積み木」を見せ、これで世界のバランスを保っていると語ります。そして、眞人にこの世界の維持を継承させようとします。この積み木は、非常に不安定で、少しの穢れも許さず、3日に一度積み直さなければ崩壊してしまうとされています。
この描写は、非常に示唆に富んでいます。積み木の一つ一つが、世界の構成要素や物理法則、あるいは生命のバランスといったものを象徴しているのかもしれません。そして、大叔父は、まるで高次元の存在が低次元の世界を設計図に基づいて組み立て、維持管理しているかのような役割を担っています。13個という数も、キリスト教における不吉な数、あるいはタロットカードの「死神(変容と再生)」など、何らかの象徴的な意味合いを含んでいる可能性があります。
この積み木による世界の維持というモチーフは、宇宙の根源的な法則や、世界の安定性を司る何らかの超越的な力をメタフォリカルに表現していると解釈できます。そして、その維持が非常にデリケートであることは、世界の秩序がいかに脆く、人間の「悪意」によって容易に崩壊しうるかを示唆しているとも言えるでしょう。
塔の存在は、まさに高次元世界への入り口であり、そこでは私たちの常識的な物理法則が通用しません。時間と空間は歪み、異なる世界が接続され、そして世界の根源的なバランスが、まるで神のような存在によってかろうじて保たれている。眞人は、この不可思議な塔を通じて、世界のより深遠な、高次元的な側面を垣間見ることになるのです。

3. 「下の世界」 – もう一つの現実、あるいは精神の高み
眞人が青サギに導かれ、塔の奥深くで迷い込んだ「下の世界」。そこは、色とりどりの自然が広がりながらも、どこか不穏で、現実とは異なる法則が支配する異空間です。この「下の世界」は、単なるファンタジー世界の描写を超えて、精神的な高次元、あるいは魂の旅路を象徴しているようにも見えます。
ワラワラの存在と役割 – 魂の源泉、輪廻転生のメタファー
「下の世界」で眞人が最初に出会う奇妙な生き物が「ワラワラ」です。白く小さく、風船のようにふわふわと浮かぶ彼らは、集団で空へと昇っていき、「上の世界」(=眞人たちのいる現実世界)で人間として生まれるために旅立っていくとされています。このワラワラの描写は、非常に東洋的な輪廻転生や、生命の源流といった概念を想起させます。
彼らは、まだ形を持たない純粋な魂のエネルギーのような存在として描かれ、生命の誕生という神秘的なプロセスを視覚化したものと言えるでしょう。ワラワラがペリカンに捕食されてしまうシーンは、生まれいずる命のはかなさと、自然界の厳しさ、そして「生きる」ことの困難さを象徴しています。このワラワラの循環は、「下の世界」が単なる物質的な異世界ではなく、生命の根源に関わる精神的な次元、あるいは魂の待機場所としての役割を担っていることを示唆しています。
ペリカンとインコ – それぞれの世界の住人が抱える「業」と「性」
「下の世界」には、ワラワラを捕食するペリカンたちや、巨大な王国を築き人間を食べようとするインコたちが登場します。
年老いたペリカンは、眞人に対して、自分たちがかつていた故郷の島が汚染され、食べるものがなくなり、青サギに連れられてこの世界に来たが、ここでもワラワラを食べるしか生きる術がないと語ります。これは、環境破壊や生存競争といった現実世界の縮図であり、彼らが背負わされた「業」とも言えるでしょう。彼らの悲哀は、生きるために他の命を奪わざるを得ないという、生命の根源的な矛盾を突きつけます。
一方、色鮮やかで巨大なインコたちは、組織化され、階級社会を築き、人間(眞人)を調理して食べようと画策します。彼らの行動は、人間の集団心理、権力欲、そして他者を支配し搾取しようとする負の側面を滑稽かつ恐ろしく描き出しています。インコ大王の存在は、独裁的な権力者のメタファーとも取れます。彼らは「下の世界」におけるある種の支配者であり、ワラワラやペリカンとは異なる形で、この世界の複雑な生態系(あるいは社会構造)を構成しています。
これらの生き物たちは、単なる動物の擬人化ではなく、それぞれが特定の「性(さが)」や「業(ごう)」を背負った存在として描かれており、「下の世界」が人間の内面や社会の深層構造を反映した精神的な空間である可能性を強めています。
ヒミの力と存在 – 過去の母、そして高次なる導き手
「下の世界」で眞人を助け、導く存在が、炎を自在に操る少女ヒミです。彼女は後に、眞人の亡き母・久子の若き日の姿であることが明らかになります。ヒミは、この異世界で特別な力を持ち、眞人を守り、進むべき道を示します。
彼女の存在は、物語に時間的なパラドックスをもたらすと同時に、単なる過去の母という以上の意味合いを帯びています。炎を操る能力は、母性的な温かさと同時に、浄化や変革の力をも象徴しているかのようです。彼女は「下の世界」の法則を熟知しており、眞人にとっては異世界におけるガイドであり、精神的な支柱となります。
ヒミとの出会いと共闘は、眞人が母の死というトラウマを乗り越え、自己のアイデンティティを再構築していく上で極めて重要な体験となります。彼女は、眞人の深層心理に存在する「理想化された母」の姿であり、同時に、それを超えた普遍的な母性や、あるいは高次の導き手としての役割を担っているのかもしれません。彼女が「下の世界」にいた理由、そして眞人の時代へと「帰還」する選択は、時間軸を超えた魂の繋がりや、運命の糸を示唆しているようです。
「下の世界」の法則 – 内面世界の反映か、実在する異次元か
「下の世界」では、現実とは異なる独自の物理法則や生命のサイクルが働いています。空には二つの太陽が浮かんでいるかのような描写があり、重力もどこか奇妙です。この世界の成り立ちは、大叔父が維持する「積み木」のバランスと深く関わっていることが示唆されます。
この「下の世界」は、果たして眞人の内面世界が具現化したものなのでしょうか? それとも、客観的に存在する異次元なのでしょうか? 宮崎監督の作品は、しばしばこの境界を曖昧に描きます。「千と千尋の神隠し」の不思議な町のように、それは個人の深層心理と繋がると同時に、独立した実在感を持っています。
「下の世界」は、眞人の喪失感、孤独、戦争への恐怖といった内面の葛藤が投影された世界であると同時に、普遍的な人間の精神構造、生命の輪廻、そして「生きること」の根源的な問いを探求するための舞台装置として機能していると言えるでしょう。それは、物理的な異次元であると同時に、私たちの意識の深層にある「もう一つの現実」、すなわち精神的な高次元空間としての性格を色濃く持っているのです。眞人はこの世界での体験を通じて、自己の内面と向き合い、生命の神秘に触れ、人間として成長していくのです。
4. 大叔父の目論見と眞人の選択 – 高次元からの問いかけと人間の答え
物語の核心に位置するのが、眞人の大叔父と、彼が眞人に託そうとする「世界の継承」です。この大叔父の存在と彼の目論見、そしてそれに対する眞人の選択は、「高次元的な視点」と「人間的な生き方」の対比を鮮やかに描き出し、作品のテーマを深く掘り下げています。
大叔父が築いた世界の正体 – 理想郷か、歪んだ秩序か
大叔父は、塔の最上階と思われる場所で、無数の書物に囲まれ、13個の積み木によって世界のバランスをかろうじて維持しています。彼が築き上げ、守ろうとしているこの世界(おそらく「下の世界」を含む塔全体のシステム)は、一見すると秩序があり、美しく、そして「悪意」が少ないように見えるかもしれません。彼は、この世界を眞人に継承させ、より良いものにしてほしいと願います。
しかし、この大叔父の世界は本当に理想郷なのでしょうか? 積み木は非常に不安定で、3日に一度は積み直さなければならず、しかも「悪意のない石」でなければならないという厳しい制約があります。これは、完璧さを追求するあまりに硬直化し、外部からの影響に対して極めて脆弱なシステムであることを示唆しています。また、大叔父自身も長い年月をこの塔に閉じこもり、現実世界から隔絶された存在となっています。彼の世界は、ある種の清浄さを保っているかもしれませんが、それは同時に現実の複雑さや生命のダイナミズムから切り離された、閉じた箱庭のようなものかもしれません。
高次元的な視点から見れば、大叔父は世界の創造主、あるいは管理者として、ある種の超越的な立場にいます。しかし、その力は限定的であり、彼自身もそのシステムの維持に疲弊しているように見えます。彼が眞人に後を託そうとするのは、自らの限界を悟ったからであり、また、眞人の持つ「穢れのなさ」に未来を託そうとしたのかもしれません。
「悪意」の存在と「悪意の少ない世界」という理想
大叔父は、眞人に世界を託す際、「この世界には悪意がある。だが、お前の手で悪意の少ない、豊かな美しい世界を作ってほしい」と語ります。この「悪意」とは何でしょうか? 戦争、憎しみ、嫉妬、利己主義といった人間の負の感情や行動を指すのかもしれません。大叔父は、そのような「悪意」から隔離された、純粋な世界を維持しようとしていたと考えられます。
しかし、宮崎作品が一貫して描いてきたように、世界は清濁併せ持つものであり、光と影、善と悪が混在しています。「風の谷のナウシカ」の腐海が、汚染された世界を浄化する役割を担っていたように、一見「悪」や「穢れ」に見えるものも、世界のバランスを保つ上で何らかの意味を持っているのかもしれません。大叔父の目指す「悪意の少ない世界」は、ある意味で現実逃避的であり、生命の持つ混沌としたエネルギーを排除しようとする試みとも取れます。
高次元的な視点から「悪意」を捉えるならば、それは世界の多様性や複雑性を構成する一要素であり、それを完全に排除することは、世界の豊かさそのものを損なうことにも繋がりかねません。
眞人の選択と「現実」への帰還 – 人間的な生の肯定
大叔父からの世界の継承の申し出に対し、眞人は最終的にそれを拒否します。彼は、積み木に触れた際に自らの額についた傷(現実世界でカラスとの争いで負った傷であり、彼自身の「悪意」や「葛藤」の象徴とも取れる)を示し、「これは僕の悪意の印です。僕にはこの世界を継ぐ資格はありません」といった趣旨の言葉を述べます。そして、彼は「下の世界」で出会った友人たち(ヒミやキリコ)との繋がりを胸に、元の現実世界へ帰ることを選びます。
この眞人の選択は、非常に重要です。彼は、大叔父が提供する「清浄かもしれないが高次元的で閉じた世界」よりも、矛盾や困難、そして「悪意」に満ちているかもしれないが、他者との繋がりの中で生きていく「現実世界」を選んだのです。彼の額の傷は、彼が完璧な存在ではなく、欠点や葛藤を抱えた一人の人間であることを示しています。そして、その人間らしさこそが、彼が現実世界で生きていく力となるのです。
眞人が「友だちをつくる」ために元の世界へ帰るという決意は、高次元的な超越や悟りではなく、あくまで人間的な次元での生の肯定と言えます。それは、不完全で、時に残酷な現実の中で、それでも他者と関わり、愛し、傷つきながら生きていくことの価値を宣言しているかのようです。これは、吉野源三郎の原作「君たちはどう生きるか」のテーマとも深く共鳴する部分です。
崩壊する塔と積み木 – 一つの秩序の終焉と新たな始まり
眞人の拒否、そしてインコ大王が積み木を乱暴に積み上げた結果、大叔父の世界はバランスを失い、塔は崩壊を始めます。積み木は砕け散り、「下の世界」もその姿を変えていきます。これは、大叔父が長年維持してきた一つの高次元的とも言える秩序の終焉を意味します。
しかし、この崩壊は必ずしもネガティブなものとして描かれているわけではありません。むしろ、古いシステムが解体され、新たな可能性が開かれる「破壊と再生」のプロセスとして捉えることができます。眞人は、崩壊する塔からヒミやキリコと共に現実世界へと脱出します。彼が持ち帰ったのは、大叔父の世界の積み木ではなく、キリコの人形と、「下の世界」での記憶でした。
これは、完成された理想の世界を受け継ぐのではなく、自らの経験と他者との絆を胸に、未完成で不確実な現実の中で、自分自身の「生き方」を創造していくことの重要性を示唆しているのではないでしょうか。高次元的な秩序に依存するのではなく、人間的な営みの中で意味を見出していくこと。それこそが、眞人が見出した答えであり、宮崎監督が観客に投げかけるメッセージなのかもしれません。

5. 「君たちはどう生きるか」 – 高次元からのメッセージと私たちの選択
物語の終盤、眞人は激動の異世界体験を経て、元の世界へと帰還します。彼が持ち帰ったものは、物理的な何かではなく、心の中に刻まれた記憶と、これから「どう生きるか」という問いに対する一つの覚悟でした。この作品全体が、高次元的な視点を通じて、私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。
作品全体を通じて描かれる生と死のサイクルと生命の連続性
本作では、母の死という眞人の個人的な悲劇から始まり、ワラワラの誕生と死、ペリカンの生存競争、そしてヒミという過去の母との再会と別れを通じて、生と死のサイクルが繰り返し描かれます。特にワラワラが「上の世界」へと旅立ち、新たな生命として生まれ変わるという描写は、個々の死を超えた生命の連続性、あるいは魂の輪廻といった高次元的な生命観を示唆しています。
「下の世界」は、あたかも魂が次の生へと移行する中間地点のようであり、そこでは生と死が隣り合わせに存在し、互いに影響し合っています。眞人はこの世界で、母の死という個人的な喪失を、より大きな生命の流れの中に位置づけ直す体験をしたのかもしれません。これは、死が決して終わりではなく、形を変えた連続性の一部であるという、ある種の高次元的な視点から見た生命の捉え方と言えるでしょう。
トラウマの克服と精神的成長 – 個人の内面における高次元への旅
眞人が体験する異世界は、彼の内面のトラウマ(母の焼死、新しい母・夏子への複雑な感情、戦争の影)が色濃く反映された世界でもありました。青サギとの出会い、塔への進入、そして「下の世界」での冒険は、彼が自身の心の闇と向き合い、それを乗り越えていくための試練の旅路だったと言えます。
彼は、恐怖や悲しみ、怒りといった感情と対峙し、ヒミやキリコといった他者との関わりの中で、勇気や友情、そして生きる意志を取り戻していきます。このプロセスは、心理学で言うところの「個性化の過程」や、神話学における「英雄の旅」にも通じるものです。眞人は、自身の内なる高次元(深層意識や無意識の領域)へと潜り込み、そこで自己の再発見と統合を果たしたのです。彼の額の傷は、その試練を乗り越えた証であり、彼が新たな自己として生まれ変わった印とも言えます。
宮崎駿監督が問いかける「どう生きるか」 – 多層的世界における自己の確立
本作のタイトルでもある「君たちはどう生きるか」という問いは、吉野源三郎の同名の著作から取られていますが、映画の物語は原作とは大きく異なります。しかし、その根底に流れるテーマは共通しています。それは、複雑で、時に理不尽な世界の中で、人間としていかに誠実に、他者との関係性を築きながら生きていくか、という問いです.
宮崎監督は、この問いを、壮大なファンタジーと高次元的な世界観の中に置くことで、より普遍的で根源的なものとして提示しています。眞人が体験した異世界は、私たちの現実世界が持つ多層性や複雑性のメタファーであり、その中で自己を見失わず、他者と繋がり、未来をどう築いていくかという選択を迫られます。大叔父が提示した「悪意の少ない、完成された世界」は、一見魅力的かもしれませんが、それは人間的な成長や葛藤を排除した、ある意味で「生きていない」世界かもしれません。眞人は、その誘惑を退け、不完全で混沌とした現実世界で「友だちをつくる」ことを選びます。
これは、高次元的な悟りや超越を目指すのではなく、あくまで人間的な次元で、他者との具体的な関係性の中で「どう生きるか」を見出していくことの重要性を強調しているのではないでしょうか。高次元的な視座(世界の複雑さや生命の連続性を理解すること)を得た上で、なお、地に足のついた人間的な営みを肯定する。そこに、宮崎監督の深い人間愛と、未来への希望が込められているように感じられます。
高次元的な視点を持つことで見えてくる、世界の複雑さと美しさ、そしてその中での人間の役割
「君たちはどう生きるか」という作品は、私たちに、日常の目線から一歩引いて、世界をより広く、深く、多層的に捉えることを促します。それは、物理的な高次元空間の実在を主張するものではないかもしれませんが、私たちの認識や理解が及ばない領域、世界の不可思議さや神秘性に対する畏敬の念を呼び覚まします。
この高次元的な視点を持つことで、私たちは、世界の複雑さや美しさ、そしてその中で生きる人間という存在の小ささと、同時にその可能性の大きさに気づかされるのかもしれません。そして、その中で自分自身が「どう生きるか」という問いは、より切実で、創造的なものとなるでしょう。眞人が持ち帰ったのは、大叔父の積み木ではなく、人との絆と記憶でした。それは、私たち自身が、日々の生活の中で何を大切にし、何を未来へと繋いでいくべきかを問いかけているようです。
おわりに – あなたはこの物語をどう読み解き、どう生きますか?
「君たちはどう生きるか」は、観る者によって無数の解釈が可能な、まさに万華鏡のような作品です。この記事では、「高次元世界」という一つの切り口から、その深遠なテーマに迫ろうと試みました。
文字通りのSF的な「高次元物理学」を描いたと断定することは難しいかもしれません。しかし、時間と空間の法則が異なる異世界、魂の循環や精神的な成長のプロセス、そして世界の多層性や複雑さを象徴するメタファーといった要素を通じて、本作が私たちの日常的な認識や3次元的な感覚を超えた、「高次元的」とも言える豊かな世界観を提示していることは間違いないでしょう。
物理的、精神的、そしてメタファー的な高次元の要素が複雑に絡み合い、物語に圧倒的な深みと奥行きを与えています。それは、眞人の個人的な成長の物語であると同時に、生命の神秘、世界の成り立ち、そして人間が直面する根源的な問いを、宮崎駿監督ならではの圧倒的なイマジネーションで描き出した傑作です。
最終的に、眞人が選んだのは、高次元的な完成された世界ではなく、矛盾と悪意に満ちていても、他者と共に生きる現実世界でした。これは、「どう生きるか」という問いに対する一つの答えであり、高次元的な視座を得た上で、なお人間的な次元で生きることの尊さを描いているのかもしれません。
この物語は、私たち一人ひとりにも問いかけます。
あなたはこの物語をどう読み解き、そして、あなた自身はこれから「どう生きるか」?
その答えは、きっとあなたの心の中にあります。





